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皆さん、こんにちは、毎日反省のマイクです。
最近ある読者の方から面白いメールが届きました。本日はこのメールを取り上げてみたいと思います。
ガイド試験を目指しているTと申します。
マイクさんには以前にお返事を頂いたことがあり、とても励みになりました。今年のガイド試験はまたしても失敗し、あと一歩で手が届きそうな英検一級も合格するには多少点がたりないようです。
英語の勉強を始めた頃、英語のできる人の頂点に立つ試験が英検一級(ガイド試験より果てしなく難しいと理解しておりました)だと思っていました。そしていつのまにかこの試験を受け、落ちたことに悔しがっている自分に多少の自己満足も感じています。けれどもマイクさんのHPを読んでいくうちに、世界の果てにある山の頂だと思っていたその彼方には、途方も無いほど広く、限りない謎に包まれた英語のプロの世界が存在するということがなんとなくわかったのです。かつてどこかで耳にしていたのかもしれませんが、当時の英語力ではその話を聞くだけで恐ろしくなったに相違ありません。
自分の歴史知識を生かすため、ということで始めた英語の勉強でしたが、最近は英語の勉強がしたいから英語をやる、というように勉強する上での動機も多少変質しております。また最近は「訳す」という行為そのものが面白く、英検一級に出題された文章を日本語に訳してみたり、ジャパンタイムスの社説を訳してみたりと、勉強の幅も広がってきました。
試験に果てしなく落ち続けている私がこういう事を言うのも恥ずかしいのですが、翻訳家の仕事というのは「訳すという作業が面白い」とか、「日本語には人一倍自信がある」といった動機で勤まるものなのでしょうか。もっとも今の私には肝心の英語力が欠けておりますので、実務をこなすということなど及びもつかないことです。けれども未知の世界を垣間見て、努力を続けさえすれば、あの世界に自分も入って行けるのでは、という気がしないでもありません。というよりも、途中で遭難するかもしれませんが、ぜひとも英語の冒険をもっともっと続けていきたいと思うのです。
大変お忙しいところ恐縮ではございますが、マイクさんは如何にお感じになられるでしょうか。英検一級に合格したら、今度は翻訳の通信教育にトライしたい、そう思っているのですが。
本人の了解も得ましたので、多少は削除しましたが、ほぼ全文を引用してみました。ある程度英語ができるようになってその後、伸び悩んでいるという姿がほうふつと浮かんでいて、とても共感を覚えます。この人の文章のいいところはてらいがなく真実が伝わってくることです。もっとも将来のためにアドバイスをさせていただければ、文章がまだ変化にとぼしく稚拙なところがあります。例えば
「最近は英語の勉強がしたいから英語をやる、というように」
「ジャパンタイムスの社説を訳してみたりと、勉強の幅も広がってきました。」
「あの世界に自分も入って行けるのでは、という気がしないでもありません。」
「英語をやる、」「みたりと、」「行けるのでは、」で最後に読点(、)を使用しています。この人の文章の面白さはこの読点の使い方なのですが、この読点がない場合のほうがいいということも考えたかということです。このような読点の使い方は効果のあるときだけ使用したほうがよいと私は思います。
次の例は仮名遣いです。
途方も無いほど広く、
及びもつかないことです。
この場合、「途方もないほど広く」
また
「およびもつかないことです」とかなを使ったほうがきれいだと私は思います。
かなを使用するか漢字を使用するかは、いつも議論のあるところですが、かなでもよくわかるときはかなを使用するのが最近のトレンドです。
最後にもう一つ例をあげます。
「勉強する上での動機も多少変質しております。」
「マイクさんは如何にお感じになられるでしょうか。」
この場合はわざわざ難しく書く必要はありません。
「勉強する上での動機も多少は変わってきました」
「マイクさんはどのようにお感じになられますか」
のほうがいいと思います。
わかりやすく書けるときはできるだけそのようにしたほうがよいということですね。
それでは文章の演習はこれぐらいにしてTさんの質問に答えてみたいと思います。
翻訳者になる動機はいろいろありますが、最も多いのは「英語が好きだから」でしょう。ただ「好きだから翻訳者になった」と言う人の場合、一部の人を除きプロとしての訓練が欠けていることがほとんどです。
簡潔にして達意な日本語を書く訓練をまったくしていないとか、あるいは信じられないことかもしれませんが、英語力そのものが翻訳者のレベルまでいっていないということもあります。
ただこの英語力というものはきわめて微妙な問題です。所詮、私たち日本人の翻訳者は英米人と同じレベルの読解力を持つことは不可能です。
私自身も翻訳作業をすることは最近少なくなってきているのですが、それでも他の翻訳者が訳したものをチェックしたりすると、これは変だなと思っても意味が把握できないことがあります。正確に意味がわからない限り翻訳することはできません。
私はこのようなとき自分の能力をあきらめて外人スタッフで語感のするどい人に質問するという方法をとります。
ところが英語がわからないにもかからわず、このようなところを解決せず誤訳が残ったまま納品する人がいます。ベテラン翻訳者の中にはこのようなとき、完全な誤訳ではないのですが、何かよくわからない日本語をそこにおくという特殊な「技術」を持った人もいます。
このようなことを避けるためには、先輩だとか英米人の知人を用意しておくとかの工夫が必要だと思います。注意しなくてはいけないのは英米人でも語感の鋭くない人はこちらの質問に答えることができないということです。
さてTさんの他のメールに次のようなものがありました。「英語の勉強は賽の河原で石を積むようなものだと思っています。このような努力が報われるのかと思うこともしばしばです」
これについてコメントします。
語学というものは正直なもので勉強した時間に比例して上達します。相当なレベルになったら別でしょうが、ある一定のレベルにいくまでは才能はほとんど関係ありません。
私は将棋が好きで今でもアマチュアの三段くらいの棋力はあると思っています。将棋に夢中だったとき、弱いプロだったら負かしてしまうような強いアマチュアがいました。
その人にどうしてそんなに強くなったのか聞いたんですね。そうしたらその人は「それは簡単です。将棋の勉強にかけた時間があなたの10倍以上なんですよ」と答えたんですよ。
語学もまったく同じで、かけた時間に比例して必ず上達するものです。もちろん効果的な学習法や自分に合った学習法をさがすことは大切だと思いますが、学習の絶対量がものをいうのが語学の世界です。したがって人によって多少は違うかもしれませんが、時間さえかければ誰でも翻訳のプロになることは可能です。
将棋の話にもどりますが、その頃お付き合いしていた人でもう一人強いアマチュアがいました。この人は35才を超えていましたが独身で、「将棋が私の恋人だ」と公言していました。
出勤途中の電車では将棋の本を読んでいますし、仕事が終わると将棋道場に直行して、11時頃まで将棋を指します。休日は朝の10時から強豪が集まる道場に行ったり、大会に出場したりします。まさに仕事以外はすべて将棋です。
一年間のトータルで考えたとき、この人が将棋にかける時間は仕事にかける時間より多いと思います。ところがここまで努力しても将棋の場合、30才を過ぎたらプロにはまずなることができません。
翻訳の場合はここまでやったらプロになることができます。
そうです、あなたが英語を恋人にして朝から晩まで英語と生活をともにしたら、プロの翻訳者にも通訳にもなることができます。
ただし、現在のところ実力はあまりないとしたら10年間、時間にして最低で1万時間は必要でしょうね。今付き合っている本当の恋人からバイバイされることは覚悟しておいたほうがいいかも知れませんね。
えっ、何ですって。「恋人も英語が好きですって」。あっ、それは一番いいですね。二人で英会話をやったり、読み合わせをしたりすれば効果はさらに上がります。
筆者はTさんの好きな表現の「賽の河原で石を積む」という意味がわかりませんでした。今回このホームページを書くために少し調べてみました。
死んだ子供が冥途に行って、同じく亡き父母の供養のために三途の河原で石を積んで塔を作るのですが、完成しそうになると鬼が来てそれを壊してしまいます。かわいそうなその子供はまたせっせと作り直すのですが、また鬼に壊されます。こんなことをなんべんも繰り返します。しかしながら絶望したときに地蔵菩薩という菩薩が現れ救われるのです。
ジーンとくる話ですよね。この話の通り語学の勉強もある程度できるようになりますと、効果が目に見えず自分の努力が「賽の河原で石を積む」ようなムダな努力ではないかと思ってしまうことがあります。
ところがやはり勝利の女神が必ず現れるんですね。一定の時間と努力の後、所期の目的を達成し、念願のプロとなることができます。
問題はその後だと思います。私もプロのはしくれとして生活をさせてもらっていますが、英語とは毎日が戦いです。最近ヒアリングの勉強をしようと思ってENGLISH EXPRESSという雑誌を買いました。
ところがですねぇ、ヒアリングの勉強のつもりで買った本なのにわからない単語やイディオムがいっぱいあるんですよ。
もうひとつ最近受けたショックです。
Joel S. Goldsmithという神秘思想家の書籍はほとんど辞書を引かなくても読めたのですが、同じ神秘思想家でもPaul Bruntonという人のTHE SECRET PATHを読み始めたらわからない語彙が次から次へと出てくるのです。ですからこの人の本は辞書を引かないと読めません。
そうなんですよ。私も英語の勉強はよくいやになります。まったく皆さんと同じです。プロとしての翻訳はできるのだからこれ以上英語の勉強はやめようと思うこともよくあります。仕事以外では辞書を引かなくてもいいと思ってしまいます。
話は変わりますが、私は以前日本語の本を読むのにわざわざ漢和大字典を新しく購入したことがあります。今は故人となっている人で井筒俊彦という人の傑作に「神秘哲学」(人文書院)というのがあります。人にすすめられてこの本は買ったのですが、読めない漢字がよく出てくるのですね。
ところが哲学の教養のない私でもひきつけられる内容でした。氏の文章はとても変化にあふれ、微妙なニュアンスを見事に伝えるものでしたので、ぜひとも氏が使用している漢字はすべて正確に把握して内容を理解しようと思い、漢和大字典を引きながら読了しました。
このことはとても有益でした。哲学という私にとっては不得意な分野に興味を持つことができましたし、日本語を書くということについてもう一度勉強するというきっかけにもなりました。
また何よりもきちんと取り組むことによって自信がつくということも実感させてもらえました。
陳腐かも知れませんが、学問に王道はありません。語学上達への道も挫折感と満足感をなんべんも繰り返しながら進んでいくものだと思います。
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